【試し読み】東海大学医学部内科学系(循環器内科学)伊苅裕二先生 INTERVIEW 患者さんに良い治療をする のが我々の使命である ~CVIT理事長として東海大教授として~

東海大学医学部内科学系
(循環器内科学)
伊苅裕二

インタビュアー
小船井光太郎
(弊誌編集委員)

 昨年8月に、CVIT(日本心血管インターベンション治療学会)の理事長に就任された伊苅裕二氏。東海大学医学部の教授としても大活躍してきた氏は、日本中のインターベンション治療を行う循環器内科医師の代表としても、インターベンションの世界を牽引していく立場となった。弊誌編集委員の小船井光太郎氏がインタビュアーとなり、氏が考えるCVITでの今後の取り組み、展望、課題などを語っていただいた。

CVIT理事長に就任─生活の変化

小船井 早速ですが、先生はCVIT理事長にご就任されましたが、毎日の生活で変わったことはございますか?

伊苅 組織のトップになるといろいろと決めて裁かないといけないことが増えたので、そういう事務的な用件というのが増えましたね。

小船井 一日何割くらいCVITのことを考えていますか?

伊苅 エフォートですか。50%くらい使っています。

小船井 東海大を良くしようという今までの考えから、公平性を持って切り替えないといけないこともあるんでしょうか。

伊苅 本業は東海大の教授なので、ここの教室を運営するのが一番重要なことですが、業界の代表者という立場になりましたので、それを考えないといけないんです。時間を使っている理由は、いろいろと細々とした問題が生じているというところですね。

小船井 先生が時間を使われているのは、患者様のより良い健康のためであり、我々インターベンションに関わる医師の希望のためだと本当に感謝いたしております。

先生の経歴
―アメリカに渡り、動脈硬化の起源を探る

小船井 先生のご経歴、僕は前から興味があったので聞きたかったのですが、先生は何故最初に三井記念病院に行かれたのですか。

伊苅 僕の頃はまだマッチングがない時代だったんですが、名古屋大学はマッチングをしていました。どういうふうにやっていたかというと、卒後大学病院では研修せずに、外へ出る時に学生が中心になって、各病院から研修医の希望は何人だということを集めて、研修医になる同級生から希望をとってマッチをさせるということをしていたんです。それをやるのが卒後研修委員長という役割で、大学時代のリーダーに「これは伊苅やれ」ということで、私は卒後研修委員長でマッチングの係をしていたんです。壁に貼って、みんなをマッチングさせていて、ハッと気が付いたら自分の行き場所がなかった(笑)。先輩に聞いたら、「委員長は一番最初に一番良いところを取ればいいんだよ」って言われて。
 潔しとせずに「なくなっちゃったな」と思って、じゃあ他流試合をしてきますということで、三井記念病院の試験が一番最初にあったので受けたんですけど、それでたまたま合格をいただいたので、大学の関連から出るということで、三井に行ったということです。

小船井 その後卒業10年目でアメリカに渡られ、ワシントン大学で血管病理学の研究をされました。これは何か理由があったんでしょうか。

伊苅 基礎研究ですね。血管の病気。動脈硬化がどういうふうに成り立っているかということに興味がありまして、何かの機会で研究を一時したいと思っていました。東大の学位を取るために第一内科に所属しましたが、公務員としてのサポートがちょっと出るということで、これはチャンスだなと思って留学をしようと。いろいろとあちこちで面接に行ったんです。ヨーロッパにも行きました。イチローが僕より後に来るんですけど。

小船井 シアトルですね。

伊苅 住むのに良い場所だということと、当時は動脈硬化の研究で世界のトップだったラッセルロスと言う人がいて、その周りに多くの人たちが集まっていました。そういうことでシアトルへご縁があって留学したということになります。

小船井 具体的にどういった研究を、どんな環境でお仕事をされたんですか。

伊苅 いろいろやったんですけど、一番自分の業績として残っているのは、人の冠動脈の内膜形成の研究です。動脈硬化は内膜にできる病気なので、内膜がなければ動脈硬化にならない。じゃあ内膜がどんな動物にできるのというと、実は霊長類だけなんです。他の動物には内膜ができないから動脈硬化にもならない。心筋梗塞で死ぬ動物はいない。人間などの霊長類だけだということですね。人間の冠動脈にいつ内膜ができるのということで、共同研究者で胎生20週の胎児から2歳ぐらいまでのLADをコレクションしている先生がいて、そこの人と共同研究で調べさせてもらったら、胎生中にできはじめるんですね。「おぎゃあ」と生まれたときには3割、4割あって、1歳、2歳で100%できるという。冠動脈のLADの6番ですね。

小船井 その時期なんですね。それは全く知りませんでした。

伊苅 胎生中にできる場所というのは、冠動脈起始部と頸動脈の分岐部とあとは動脈管なんですね。動脈管は生まれた瞬間に詰まる血管ですから、胎生中にできるのは納得できるんですけど、なんでそんな心筋梗塞とか脳梗塞の原因になるところが、胎生中に内膜ができるかというのは謎です。誰も説明できていないです。

小船井 LAD、頸動脈、PDAは全て先生が今もいろいろと関わられている場所でもあり、非常に面白い発見ですね。

「カテチームを率いていける人を」
─42歳、若くして東海大学の教授に

小船井 三井記念病院に戻られて、2005年には若くして東海大学の教授になられています。当時の状況にもいろいろとあると思うんですが、当時のインターべンション領域はどういったものでしたか。

伊苅 当時はCypherステントが出た頃で、まだインターべンション業界は混沌としていた時期です。Cypherが出る時期なので、再狭窄こそが君たちの弱点でしょって言われている時代だったわけです。今は再狭窄で困ることはほとんどないと思いますけれども。出始めて、そこから血栓症の問題が。

小船井 2006年から2007年の頃ですね。

伊苅 確かに42歳で東海大に教授で呼ばれて若すぎて苦労した点もありました。東海大学の循環器内科は、もともとが不整脈の教室なんですね。カテーテルインターべンションが非常に弱くて、周りを見ると湘南鎌倉総合病院や済生会横浜東部病院など多くの病院がある中で、神奈川県西部にそういう基点になる施設がないということで、多分東海大の本部の人は若くてカテチームを率いていける人を探していたということでしょうね。ちょうどマッチしたので呼ばれてきたということになります。

小船井 僕は2005年の頃はまだ日本にいなかったんですが、伊苅先生が三井記念病院から東海大学の教授になったというのは、この領域では非常に大きなニュースになったということはお伺いしておりました。三井記念病院はもちろんカテーテルインターべンションの領域ではトップクラスの施設だと思うんですが、やはりいきなり教授というのは驚きはありましたか?

伊苅 病院はいいんですよ。臨床することがすべてなので。病院で臨床をやるということの良さというのもすごくよく分かっていました。それで結局、三井は15年いましたね。当時は、一方で臨床研究とかもしたかったんですけれども、病院で研究資金を受け取る方法がなかったんですね。いろいろとやってみたんですけど、やっぱり研究資金をきちんとした形で受け取って、それを研究にしてということができないので、大学のほうが良いなと思っていた時にちょうどこういう話でした。自分としては渡りに船だったわけですけれども、やっぱり病院で臨床研究をするということの困難さがちょうど増してきた時代ではあったと思います。

続きは、CATH LAB JIN 冬号(Vol.2 No.1)にて

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