【試し読み】東邦大学医療センター大橋病院原 英彦先生INTERVIEW 東邦大学・原先生に聞く、これからのStructural Heart Disease interventionの新展開

東邦大学医療センター大橋病院
原 英彦

インタビュアー
金子英弘
(弊誌編集委員)

ストラクチャークラブ・ジャパンの会長を務め、わが国のSHD治療をリードする原 英彦氏(東邦大学医療センター大橋病院)。留学以来、わが国におけるこの分野の発展に貢献してきた氏に、TAVIやMitraClip、さらには左心耳閉鎖など日本での導入が進むデバイスの展望や、チームを構築していくコツ、Structureの新しい流れを乗りこなすための知見などをお話し頂いた。

研修した三井記念病院の医師たちにインスパイアされ、カテーテルに興味を持つ

金子 原先生、本当に貴重な時間をありがとうございます。原先生はまさに日本のStructural Heart Disease interventionのリーダーでいらっしゃいますが、まず先生が循環器の中で特にカテーテルに興味を持たれたきっかけを教えていただけますでしょうか。

 私は研修が三井記念病院だったのですが、もともと神経内科希望で入っていて、実は学生時代は循環器が苦手でした。私は旭川医科大学で肺循環を教わっていたのですが、学生時代当時は全く理解できず、循環器には苦手意識をもっていました。
 大学6年生の夏休みに実習に行ったのが東京大学医学部附属病院でして、老年病科や神経内科に興味があったので、様々な病科に行きました。そのとき研修を担当されていたのが現北里大学の阿古潤哉先生でした。

金子 そうだったのですか?

 はい。その老年病科を回って、多くの先生とお話をした際に「臨床をやりたければ三井記念病院に行くといい」と言われ、三井記念病院に入りました。
 面接の時には「神経内科に興味があります」と大見栄を切りはしたものの何も決まっておらず、循環器には興味がありませんでしたし、神経内科か消化器科に行きたいと思って入ったのですが、三井記念病院は循環器がメインの病院でした。当時病棟とカテーテルに注力されていたのは現東海大学の伊苅裕二先生で、伊苅先生の下に現在は自治医科大学附属さいたま医療センターにいらっしゃる藤田英雄先生、その下に現在、山形大学の渡辺昌文先生がいらっしゃいました。その次の次に阿古先生、阿古先生の同期が現帝京大学の上妻 謙先生。私のひとつ下に岩手医科大学の森野先生。循環器の先生方は皆さん厳しくも熱く接してくださいました。
 AMIの患者さんが運ばれてきた日の翌朝になると、皆さん廊下などで疲労困憊の様子でした。当時は絶対に無理だと感じ、消化器科か神経内科に行こうと思っていたのですが、一緒にやっていると楽しく見えてきました。実際にカテなどをやってみると非常にエキサイティングで楽しく、自分ではカテーテルは無理かもしれないけれど、やってみたいという気になって、最初の初期研修が終わったとき、当時の部長に「実は循環器がやりたいです」と言ったら、そのまま通りました。そこからは本当に大変でしたが。
 ですので本当は循環器を目指していなかったものの、周りの先生方にインスパイアされたのが一番大きいですね。先程挙げた先生方も錚々たる方ばかりで、現在、活躍されている先生も三井記念病院出身の方が多いですよね。そういった先生方に本当にインスパイアされました。それでカテをやろうと思い、今に至ります。

金子 確かに原先生をはじめ、三井記念病院のOBの先生方は、今日の我々の業界を支えていらっしゃる先生方が本当に多いですね。

 最初はやはり大変でした。普通の人間があの先生方についていけるとは思わなかったのですが、いざ入ってみたら面白かったです。

2004年にアメリカに留学、PFOへも手を広げていく

金子 Structural Heart Disease interventionに携わられたのは、留学してからですか?

 そうです。私が留学したのは2004年で、日本にCypherが入ってきた年ですね。東邦大学医療センター大橋病院と国立循環器病研究センターでは、日本に早く導入するために薬の濃度を見るというCypherの研究をしていました。その2施設で国内のデータを出し、認められれば日本に導入ということで、Cypherのことでもちきりの時期でしたね。
 私の上司はRobert Schwartz先生という方でしたが、実は彼もかなり関係が深く、Taxus のPreclinical のConsensusDocumentやCirculation誌に、どうやって薬剤溶出性ステントのモデルを作るかということを書いていました。
 2004年に私が留学した時は絶対に薬剤溶出性ステントの仕事だと思っていました。ところが行ったら開口一番、「お前はPFOをやれ」と言われまして、かなりショックを受けました。当時はあまり知らない分野でしたし、どうしたらいいんですかと聞いたら、「実験をやりつつ、お前はReview Articleを書け。まず英語も慣れたほうがいい」と言うので、JACC誌のReview Articleを書かせてもらったのが最初でした。その時にPFOの論文を読んで、やっていた実験をCCI誌に載せてもらって。そこから始まったんですね。
 その間に、近くにあった買収される前のAtritech社から「こんなデバイスあるけど、興味ある?」と声がかかり、「もちろんありますよ」と答えまして。そうしたら向こうの会社の人と仲良くなって、Schwartz先生がCTで米国内の講演を数多くされている先生だったので、「じゃあCT を使おう」ということで、左心耳にWatchmanを詰め、CTを撮って解析しました。
 今でもおそらくWatchmanのウェブサイトがあるかと思うのですが、そのウェブサイトの写真の何枚かは、実は私が撮ったものです。

金子 そうだったのですね。

 当時「左心耳についてもReviewAr tcileを書け」と言われて書いたのがCCI誌のReview Articleで、それと同時期に波とでも言うべきものがあったのでしょう、Eric Topl先生のInterventional Cardiologyという教科書のチャプターを左心耳で書くことになりました。当時は今ほど本もなく、トポールの教科書というと非常にハイランクでしたし、信じられない気持ちでいたのですが、本当に書かせてくださいましたね。
 そこからも数々の論文を取り上げて頂いて、帰国後も日本ではいつ始まるのかと待ちつつ、その間に邦文総説を20本以上書いていましたが、ようやく治験が始まりました。Closure DeviceはPFOもそうですし、左心耳も本当に運がよかったですね。ちなみに当時PFOのデバイスを最も扱っていたのはAGA Medical社というミネソタの会社で、そこも車で10分ぐらいのところにありました。

日本に帰国してからASDが始まり、Closure Deviceへ

𠩤 NMT Medical社が作っているSTARflexは片頭痛の患者さんのPFO閉じるデバイスだったのですが、臨床試験でも結果を残せないままに終わってしまったため、AGA Medical社のAmplatzerデバイスが世界中に広まってきました。その時にPFO occluderの仕事もしていたので、AGA Medical社と出入りがあるようになり、日本に戻ってきたときに、ちょうど2005年にASDのoccluderも日本で認可されていて、PFOも絶対必要になるだろうということでそういった心房中隔の治療に目を付けていたのが、高山守正先生でした。

金子 榊原記念病院のですか?

 そうです。現岡山大学の赤木禎治先生と高山先生がJPICに声をかけ始めていたときに、ちょうど中隔の治療を海外でやっていた人間がいるということで私が紹介されて、今CVITで毎年やっている成人先天性カテーテル治療研究会、当時はASD/PFO研究会と言う名前だったのですが、そうした中隔の構造異常の研究会で中心になって、JPICと3年間交渉しました。ようやくJPICの先生方に了承をいただけて、始めたのがASD閉鎖術でした。
 アメリカにいるときにはASDをやるつもりはなくて、帰ってきたときに当時、東邦大学医療センター大森病院小児科教授であった佐地勉先生から「東邦大学でASDをやってくれないか」と言われて、大森病院で成人領域の中のASD閉鎖術を担当したのが最初の例でした。
 そこからASDが始まって、Closure Deviceにも手つけていくうち、次はPVLのお話が来ました。これも海外のライブ治療で見たことがあり「できるかな」と思っていたのですが、現在仙台厚生病院にいらっしゃる松本 崇先生がSaibal Kar先生のところに留学されていたので「技術的なことを詳しく教えてほしい」と頼んだところ、松本先生からSaibal Kar先生に聞いてくださいました。ちょうど1例目が来たからやろうということで倫理審査を通して、非常に難しかったのですが成功しました。それをCirculation Journal誌に掲載させて頂き、そこから現九州大学の有田武史先生が何回か大橋病院に見に来てくださり、それで有田先生とも、北海道から沖縄までのPVL閉鎖術行脚が始まりました。

続きは、CATH LAB JIN冬号(Vol.2 No.1)にて

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